今こそ。

中学1年生の時に宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が

書かれた奉書紙を父がくれました。

今考えると、岩手出身の父の根底に宮沢賢治への誇りと尊敬の念が

あったのでしょうね。

有名なこの詩を見ると東北人らしさ、日本人らしさを感じます。

改めて、被災された東北の方、支援している日本中の皆さんの

勇気になる詩ではないでしょうか。

 

「雨ニモ負ケズ」 宮沢賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

雨にも負けず 風にも負けず

雪にも 夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち

欲はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に 玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに よく見聞きし 分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋にいて

東に病気の子どもあれば 行って 看病してやり

西に疲れた母あれば 行って その稲の束を負い

南に死にそうな人あれば 行って 怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や 訴訟があれば つまらないからやめろと言い

日照りの時は 涙を流し

寒さの夏は おろおろ歩き

みんなにデクノボーと呼ばれ

ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに わたしはなりたい

 

 

「STRONG IN THE RAIN」 Kenji Miyazawa

Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow
He is healthy and robust
Free from all desire
He never loses his generous spirit
Nor the quiet smile on his lips
He eats four go of unpolished rice
Miso and a few vegetables a day
He does not consider himself
In whatever occurs…his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things

He lives in a little thatched-roof hut
In a field in the shadows of a pine tree grove
If there is a sick child in the east
He goes there to nurse the child
If there’s a tired mother in the west
He goes to her and carries her sheaves
If someone is near death in the south
He goes and says, ‘Don’t be afraid’
If there are strife and lawsuits in the north
He demands that the people put an end to their
pettiness

He weeps at the time of drought
He plods about at a loss during the cold summer
Everybody calls him ‘Blockheads’
No one sings his praises
Or takes him to heart

That is the kind of person
I want to be

宮沢賢治とは
明治二十九年(1896年)岩手県花巻市出身。盛岡高等農林学校に進む。日蓮宗に帰依し、熱心な信者となる。文芸によって布教活動をすることを考え、童話を書く。大正十年、妹の病気のため帰郷。稗貫(ひえぬき)農学校の教師となる。翌年より作品がが盛んに作られる。大正十五年退職し、農業啓発活動を始める。昭和八年、三十七歳で病死。

 

 

 

 

まど・みちおさん

お気に入りの詩がまた一つ増えました。

 

「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね…」を作詩された「まど・みちおさん」の詩集より。

 

 

「どうしてだろうと」

 

どうしてだろうと

おもうことがある

 

なんまん なんおくねん

こんなに すきとおる

ひのひかりの なかに いきてきて

こんなに すきとおる

くうきを すいつづけてきて

こんなに すきとおる

みずを のみつづけてきて

 

わたしたちは

そして わたしたちの することは

どうして

すきとおっては こないのだろうと…

 

 

 

まど・みちおさんの詩に出会うと、自分の深い部分に眠っていた

シンプルな答えがパッと浮き上がって来るような感じがあって、快感を覚えます。

何をそんなに複雑にしていたのかと、自分の思考のゴミの山を見つめて溜息が出ます。

 

好き、楽しい、嬉しい、美味しい、そんなシンプルな感覚の向こうに

すきとおった自分がいるのかもしれません。

 

 

 

 

 

芯のある言葉

私は芯のある言葉を使える人をとても尊敬します。

無駄なものを削り落し、自分自身の思いを

透明感ある言葉で表現できる人を心から尊敬します。

 

自分がそう出来ないせいか、憧れの眼差しです。

なので、言葉を扱う職業の人をとても尊敬します。

詩人、作家、コピーライター、脚本家・・・・・。

 

言葉にはわたしたちの心をなにものからかパッと一瞬にして解き放ってくれる

そんな偉大な力があると思います。

でもその偉大さは、言葉の使い手が、自分の奥深くまで掘り下げて、

ようやく到達した普遍の真理について語っている場合にだけ

感じられるのかもしれません。

 

そんな言葉に出会ったとき、浄化が起こったように、

ホロホロと心の垢が落ちていくのが分かります。

それが時として涙になったりします。

 

今日は私の心の浄化装置、お気に入りの詩をいくつか

紹介いたします。

 

 

「わたしを束ねないで」  新川和江

 

わたしを束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱のように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡すかぎりの金色の稲穂

 

わたしを止めないで

標本箱の昆虫のように

高原からきた絵葉書のように

止めないでください わたしは羽ばたき

こやみなく空のひろさをかいさぐっている

目には見えないつばさの音

 

わたしを注がないで

日常性に薄められた牛乳のように

ぬるい酒のように

注がないでください わたしは海

夜 とほうもなく満ちてくる

苦い潮 ふちのない水

 

わたしを名付けないで

娘という名 妻という名

重々しい母という名でしつらえた座に

座りきりにさせないでください わたしは風

りんごの木と

泉のありかを知っている風

 

わたしを区切らないで

,(コンマ)や.(ピリオド) いくつかの段落

そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく 拡がっていく一行の詩

 

 

 

「自分の感受性くらい」  茨木のり子

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

 

 

「表札」  石垣りん

 

自分の住むところには

自分で表札を出すにかぎる

 

自分の寝泊りする場所に

他人がかけてくれる表札は

いつもろくなことはない

 

病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と

様が付いた

 

旅館に泊っても

部屋の外に名前は出ないが

やがて焼場のかまにはいると

とじた扉の上に

石垣りん殿と札が下がるだろう

そのとき私がこばめるか?

 

様も

殿も

付いてはいけない

 

自分の住むところには

自分の手で表札をかけるに限る

 

精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「中野北溟の世界」に思いを寄せて



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「大いなるもの」に心が触れ、言葉が止まりました。
文字が映像に変わり、紙面から溢れる創造のエネルギーが、心を揺さぶりました。
まだ学生だった18歳の頃、中野先生の門を叩き、書のご指導を受けましたが、
あまりにも幼稚で稚拙な私には、「表現する」ことの意味が理解できず、
ただ目の前にある文章を格好良く書くことに専念していたように思います。
「墨に百彩あり」
この言葉に出会った時、奥深い書の世界を理解するには、
百彩の勉強をすると良いのでは?浅はかな私は単純にそう考え、色彩の勉強を始めたのです。
ところが皮肉なことに、年々色彩の仕事が広がり、その忙しさから
両立を諦め、7年前に書活動の方を休止してしまいました。
完全に休止する前は、何となくどちらも調子を合わせていましたが、
始めたばかりの色彩の仕事が楽しくなっていた私は展覧会などへの出品意欲を保てなく
なっていました。
丁度その時、中野先生から「どうして今回は展覧会に出さないんだ?」と聞かれました。
「次回頑張ります!」と答えた私に、
「今回頑張れない者が、どうして次回頑張れる?一つ出来る者は二つも三つも出来るものだ。」と、
痛烈パンチが戻ってきたのです。
正しくその通りだと思いました。
小さな頃から私は甘く、根性のない、弱い人間でしたので、
「言い当てられて参ったな。」という感じがしました。
そしてその時、理屈をつけて、自分に言い訳して、ダラダラやるのはやめよう、
どうせ一つのことすら満足に出来ないんだから、ここは一旦、スパッとお休みを戴こう、
そう決めたのでした。
今回、「中野北溟の世界」を拝見した時、
感動のあまり、人目もはばからず号泣しました。
原子先生の素晴らしい詩が、中野先生の書表現によって、
更に豊かで潤いに満ちた世界として広がっていたのです。
もうそこには文字はありませんでした。
これが「創造する」ということなのか、と全身が震えました。
この7年、先生と私の間で変わらない問答が続きました。
「いつになったら始めるんだい?もうやめるのかい?」と美しい笑顔で問う先生に、
私はいつも「もう少し。」と答えていました。
いつもまだ、心の準備、情熱が足りないように感じていました。
でも、先生の書の道の集大成とも言える展覧会を拝見したのがきっかけで、
ようやく、本当にようやく「書きたい、表現してみたい」という情熱が7年ぶりに湧いてきました。
墨界の奥義に触れたくて、百彩を知るため色彩の世界を歩き回った7年は、
私にとって大切な時間でした。
色彩の世界が私に、受け取る質を広げ、百彩という豊かさをもたらしてくれました。
探していた百彩は先生の墨の中にあったのです。
そして、その百彩は自分の中にもなければ見い出せないものだったのです。
中野北溟先生の墨の中にある百彩に触れた喜びが
今もずっと心に残っています。
 
やっと、百彩が分かりました。
次は墨の番です。


展覧会の中で一番好きだった詩です。


「天空受胎」 原子修

原郷創造による恋しいものよ

たかくホルンの声で啼くと

北の荒波を蹴って

大白鳥は舞いあがった


太陽よ

あなたを慕うわたしは美しいですか

火のたてがみを逆立てて

太陽が叫んだ

そなたの胸に燃えさかる情熱こそは

わたしの魂から散りこぼれた光の成分


つばさから海水を涙のように

ながして大白鳥はささやいた

太陽よ

あなたに言い寄る私の声は美しいですか

黄金の眉をしかめて

太陽が叫んだ

そなたの虹いろの声こそは

わたしの内なる愛の声の霊魂


尾羽が太陽の火にふれて煙を

あげるのもかまわず

大白鳥はささやいた

太陽よ

あなたに抱きしめられたいわたしの本能は美しいですか

純金の目をうるませて

太陽が叫んだ

おなじ狼から生まれたそなたは

わたしの肉親ではないか


優美な首が焼けるのもいとわず

大白鳥はささやいた

太陽よ

あなたの子を孕みたいわたしの欲望は美しいですか

突然

金色にかがやく両の腕に大白鳥を抱きしめ太陽が雄叫びをあげた

愛しいものよ

そなたの蜜の郷にわたしを入らしめたまえ


太陽の灼熱の光の柱が

大白鳥の身体の深奥に差しこみ

太陽の一瞬の爆発音が

大白鳥の胎に夥しい命の芽をよびさまし

ついに

極熱の抱擁に耐えかねた大白鳥は

太陽の灼熱の腕をふりほどき

極寒の海へと落ちた